在宅勤務、ゴルゴ線

コロナ禍において、働き方のメインが在宅勤務になった筆者です。

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在宅勤務になると出社勤務のように移動時間が無くなるため、その分、我が家で過ごす時間も長くなります。

我が家で過ごす時間が長くなったことで、家族と、特に専業主婦の妻と過ごす時間も長くなりました。

妻の方からは、次はいつ会社にいくの?と、出社圧力のようなものをかけられているように、感じるほどでした。

コロナ禍がますます深刻になってくると、一ヶ月に一回も出社することが無くなり、ますます妻と過ごす時間が長くなっていきました。

すると、普段の家庭における妻の言動が目につくようになりました。

自分が出社していた時には作っていた朝食を自分の分だけではなく、妻が朝起きてこないようになり、子供の分まで作るようになりました。

(子供の感想文で、パパいつも朝ごはんありがとう、炒飯おいしいよ、と書かれており、嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになりました。)

また、自分が仕事をしている傍らで、妻がだらだらとゲームをして時間を過ごしていたりしました。

その怠慢な姿に、自分自身もイライラするようになっていきました。

同時に、妻は私の仕事における長電話に、本当にきちんと仕事していたのかと、イライラするようになっていきました。

家庭という同じ環境の中で時間を過ごしているにもかかわらず、顔を合わすとお互いのことが気に食わない、そのような状況に陥っていきました。


本来であれば、夫婦で時間を過ごすことは良いように思うかもしれません。

しかし、夫婦とは不思議なもので、長年連れ添っていると、付き合った頃の想いはどこへやら、すれ違いが起こっていき、喧嘩することもしばしば起こるようになっていきました。

在宅勤務が、そのような夫婦関係を浮き彫りにしたわけです。

そして、そのような状況において、妻からRAPT理論について、教えてもらいました。

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私自身は陰謀論からRAPT理論について入っていきました。

その後、RAPTブログの有料記事も読むようになっていきました。

rapt-neo.com

これまで有料記事の内容を、自分なりに実践してきたつもりです。

すると、それまでいがみ合っていた夫婦関係が嘘であったかのように、関係性が徐々に好転していきました。

また、そのような変化は、表面的な変化としても現れるようになりました。

毎日、お風呂の後で頭を乾かすときに、鏡で顔を見るのですが、目の下のたるみ、ゴルゴ線が消えていたのです。

www.theclinic.jp

それには妻もビックリしていました。

私がやったことは、整形ではなく、ただお祈りをしただけです。

霊体が綺麗になると、肉体も綺麗になる。

それがまさに現実的に目の前で起こったことに驚愕しました。

そして、私がRAPTブログを読むようになったこと自体が、妻のお祈りであったことを後々知ることになります。

RAPTブログに導かれたことに、ただただ感謝しかありません。

自己啓発

自己啓発(じこけいはつ)とは、自己を人間としてより高い段階へ上昇させようとする行為である。「より高い能力」、「より大きい成功」、「より充実した生き方」、「より優れた人格」などの獲得を目指す。

ウィキペディアから引用-

以前、資格という記事を掲載しました。

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資格と同様、サラリーマンとして働いていると、この自己啓発をしている人も少なくないように思います。

かくいう私もその一人です。

かつて、私も様々な自己啓発本を購入し、読み漁っては、その本の内容に満足し、より高い段階へ昇ったような気分になっていました。

しかし、実際のところ、それはあくまで一時のことであり、わかったような気になっていただけでした。

それを裏付けるように、本の内容を現実的に取り入れようとしたところ、全く活用されませんでした。


例えば、私の場合は、下記の本を読んでいました。

すりへらない心をつくるシンプルな習慣 (朝日新書) | 心屋仁之助 |本 | 通販 | Amazon

本の紹介として、下記のように紹介されております。

「会社に行きたくない」そう思ったことのある人は多いはず。それは、あなたがダメなわけでも弱いわけでもありません。怒りっぽかったり、クヨクヨしがちだったり、自信がもてなかったり、肝心なときに力が発揮できなかったり……。「会社がイヤ」状態になってしまった人は、自分の性格を責めがちです。でも、自分を責めなくても大丈夫。自分のイヤな性格は変えられます。ちょっと凹んでしまった心も、また、満たせばいいのです。自分を責めずに、折れない心をつくるためのちょっとした習慣がいっぱいつまった1冊。 9万部を突破した『人間関係が「しんどい! 」と思ったら読む本』の著者で、超人気カウンセラーの心屋仁之助氏の最新刊!

まさに、会社生活が一番、しんどい時に読んでいた本です。

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そのしんどい時には、救われたような気になっていました。

しかし、紹介文にもありますように、自分を責めなくても大丈夫とか、自分のイヤな性格は変えられますとか、結局、自分が悪いことが前提になっています。

また、ちょっと凹んでしまった心も、また、満たせばいいのですというところにも、じゃあ、具体的にどうすれば満たされるのかという肝心なところが曖昧です。

さらに、自分を責めずに、折れない心をつくるというところも、ただの精神論にしか過ぎません。

言ってることは、あたかも正論のようでありながら、でも、真実は語っていない、答えではないという結論になりました。

そのような内容では、救われた気にはなるものの、あくまで一時救われた気になるだけで、本当の意味で救われたことにはなりません。


では、本当の意味で救われるにはどうすればいいのか。

その答えはRAPTブログにしかありません。

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世の中のどの自己啓発本を読むよりも、RAPTブログを読むことがオススメです。

娯楽

今回のコロナ禍の巣ごもりにより、ゲームに注目が集まり、ゲームを始めた人も大勢いることだと思います。

ゲームは娯楽の最たるものです。

私もかつて、小学校低学年のとき、任天堂ファミコンにハマっていました。

そのファミコンを誰が買ったのかは記憶にはなく、残っている記憶は苦い記憶しかありません。

ブラウン管テレビの置いてあった姉の部屋に忍び込み、朝6時からファミコンをするということが、日課になっていました。

姉のほうから父親にその話がいったのでしょう、そのファミコンとソフトと私がセットで、家から追い出されました。

どのようにして追い出されたのか、その時の父親の鬼の形相も記憶には残っていません。

記憶に残っているのは、気がつけば雨の降りしきる公園のブランコに座り、ビニール袋に入ったファミコンとソフトを、ただ眺めていたことです。

テレビに繋げなければ、使えもしないファミコンを見ながら、いかに自分が無力であるのかを痛感しました。

そのまま、そこにいても何も前に進まないことを悟り、家にトボトボ歩いて帰りました。

自分史上、最も古く苦いゲームの記憶です。


しかし、このゲームに対する気持ちは中々切り離すことができませんでした。

学校生活においても、友達との話題がゲームであるため、ゲームは欠かせないという意識が働いていました。

そのような意識を持ったまま時が過ぎ、次は、任天堂から、スーパーファミコンが発売されることになりました。

私自身、家を追い出されたことの反省もなく、父親にスーパーファミコンを買いたい旨伝えました。

すると、父親は金庫からおもむろに3万円を取り出し、今月の食費や、それで買ってこいと、まさに鬼の形相で言われました。

そして、逃げるようにおもちゃ屋に向かい、スーパーファミコンを買いに行きましたが、予約している分しか置いていないということで、買うことができませんでした。

ある意味、功を奏したというか、まさに神様の計らいであったように思います。

もし、その時にスーパーファミコンを買っていたら、父親との関係も悪くなり、さらにゲームのドロ沼にハマっていったはずです。

そのときを契機に、私のゲーム熱は冷めていき、ゲームを話題として繋がっていた友達との関わりは少なくなり、公園で遊ぶ友達との輪があっという間に広がっていきました。

また、学校の成績も良くなり、スポーツをする能力も身につき、運動会では大活躍の働きが出来るようになりました。

ゲームを失った分、多くのものを得ることができましたが、これも神様の計らいであったように、今では思います。


しかし、今、自分の子供が、ゲームにハマっている状況を見ると、戸惑いしかありません。

ゲーム機は、懐かしき任天堂のswitch、購入したのは、私の父です。

孫に甘々のおじいちゃんの、私に向けられた鬼の形相は何処へ行ってしまったのか、今となっては謎です。

しかも、ゲームは進化を続け、今はインターネットを通じ、全世界のプレイヤーとゲームをすることができます。

また、手が込んだことに、そのゲームで勝ちやすくするためのアイテムを購入したり、期間限定でしか手に入れられないアイテムがあったりします。

さらに、定期的にイベントというものを開催し、その日その時にゲームに向かわせる動機づけをも行っています。


しかし、私も幼い頃に経験したように、ゲームには一度ハマると抜け出せない中毒性があります。

そして、ひたすら情報を受けてばかりで、思考することができなくなってきます。

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そのような誘惑だらけのゲームに子供がハマり、どのようにすれば抜け出せるのか、かつてゲームにハマった自分自身への艱難とも思っています。

乗り越えるべく、下記のように言うようにしています。

・ゲームでは、疲れたりイライラしたりするだけで、何も得ることができない。

・ゲームのアイテムを購入すればするほど、自分の心を売ってしまっている。

・同じ時間を使うのであれば、ゲーム以外で、自分のためになる何かを考えて実行しなさい。

今はまだ試行錯誤の段階ですが、いつか答えがわかるその日に向けて、根気強く続けていくつもりです。


RAPTブログでは、このような娯楽は、サタンが生み出したものであると示されております。

以下の添付は、アニメやゲーム業界に身を置いて仕事をしていた方による証言になります。

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悪魔的なアニメもゲームも一時的に人々に刺激や興奮を与えるだけで、決して人を幸せにすることはないということです。


show me

保身

サラリーマンとして働いていると、保身から責任を取りたくない、取らないでいいよう振る舞う人が大勢います。

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以下、引用です。

ほ‐しん【保身】
〘名〙 身の安全を保つこと。自分の地位、名声、安穏を失うまいと身を処すること。

コトバンクより引用−

会社では、上司は、この地位、名声を守ることを最大限に重視しているものです。

そのため、自らが動いたときの責任を問われかねないよう、ただ言うだけで自らは極力動かないことがあります。

確かに、自ら動かなければ、身の安全は保障されますが、そのしわ寄せは部下に来ることになります。

その時、部下は、この上司はただ言うだけで、何もしない人なんだなと、幻滅することになります。

そう思われた上司には誰も頼らなくなり、近づかなくなり、ゆくゆくは独り浮いた状態になってしまいます。


例えば、前の会社でも、元上司が事あるごとに責任逃れをするという執務態度から、管理職でありながら現場作業に異動となり、事実上の窓際社員となったことがありました。

単純作業をするだけでそこそこの高給を貰うその上司に対し、裏では給料泥棒といった陰口を叩かれたり、一回り以上年下の社員に、仕事の件で誤りを指摘され、何も言い返すことができなかったり、どんどん、肩身の狭い思いをするようになっていきました。

部内の飲み会を開催しても、参加することはなく、会社に働きに来ていても、人目を避けるようにコソコソと仕事をするようになり、独り浮くようになっていきました。


また、政治家や上級国民などは、その保身の最たる例であるように思います。

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かつて、贈収賄疑惑のある政治家が、説明責任を果たす国会の証人喚問の場において、記憶にございませんと、反論していた記憶があります。

また、上級国民である池袋暴走事件の飯塚幸三も、裁判の最初のほうでは、ブレーキとアクセルを踏み間違えた記憶は全くないと、反論していました。


特に、最近の話題では、天皇家秋篠宮様のお誕生日に合わせて、会見が開かれました。

説明責任のあるご身分の方が、反論するための基準作りという、残念な内容であったため、ヤフーのコメント欄に、非難するコメントが溢れかえっています。

保身のための"反論"に呆れかえるしかありません。

政治家も上級国民も天皇家も、そもそも必要がないとしか思えません。


このように、責任をとる身でありながら、保身に走ることばかりでは、周りからの信頼を失い、むしろ身の安全が保障されなくなります。

では、何故、そのようなことになってしまうのでしょうか?

結局は、地位や名誉に対する執着欲です。

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しかし、地位や名誉のための保身は、身を滅ぼしかねません。

この点、RAPTブログの記事では、以下のような記事が掲載されておりました。

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この記事を読んで、自分自身の心にもしっかり刺さりました。

経営者

私が転職し、そこで同じ時期に入社した転職者が、この度、退職することになりました。

理由の一つとして、会社経営者のリーダーシップや、従業員への尊敬の念が無いことが、辞める理由であるとのことでした。

以下、引用です。

リーダーシップとは、組織をまとめる能力のことです。 チームの指揮官として方向性を決めて、ビジョンを明確にし、メンバーに伝達していきながら組織の活動やプロジェクトをどう進めるかの舵取りをする役割を担います。 チームによっては、リーダー以外の人がリーダーシップをとる場合もあります。

-引用終わり-

では、何故、そのようになるのかというと、所詮は、雇われたサラリーマン経営者であるからです。

上役との繋がりで、どこかから連れてこられた人が、経営者の席に座るからです。

そのような経営者には、その会社での事業内容や社会に対する貢献のビジョンが無く、従業員の心情を理解することができません。

そのような経営者は、お金を使い、周囲にアピールをし、いかにして自分のステータスを上げるかしか、頭にありません。

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そのような浅はかなところを、その会社で働いてきた従業員に、見透かされてしまうわけです。


また、辞めるもう一つの理由として、楽をして給料を貰えれば良いというわけではなく、やりがいや充実を求めているとのでした。

働く従業員はお金を稼ぐことが一つの目的ではありますが、お金でアピールすることしか頭にない経営者は、その目的にしか目がいっていません。

つまり、経営者はお金をばら撒きさえすれば、従業員は満足して働くと思っているわけです。

確かに、生計を立てるためには、お金が無ければ成立しないため、お金は必要です。

しかし、働く上でお金以上に重要なものが、やりがいや充実です。

自分が行っている仕事が、いかに役に立っているか、貢献しているかという意識が、心の充実を生み、やりがいに繋がるわけです。

ただ、そのような経営者は、働く従業員のことを、お金というエサにつられる社畜のように考えています。

そのため、そのような経営者の下では、心の充実が得られないため、その会社を辞めるという選択肢を選ぶようになるわけです。


では、何故、このように会社経営者と従業員の間で、溝ができてしまうのでしょうか?

結局は、今の会社というシステムが、サタンが作り出したものだからです。

RAPTブログで、会社について、記事が掲載されております。

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・会社の奴隷として働き、ストレスばかりを溜めて地獄のような生を生きていた。

・この国は天皇を頂点とした「日本株式会社」かも知れません。私たちはこの会社で働く奴隷のようなものです。

・日本政府は金融ユダヤの製薬会社を救うために、日本全国の学校に精神科医を配置しようとしているのかも知れない。

結局、サタンが作り出した会社というシステムの中では、庶民は奴隷でしかありません。

しかも、twitterで、日本政府や日銀が、実は株式会社であるとの記事を見ました。

つまり、日本政府は、その運営資金として庶民から税金を巻き上げ、金融ユダヤの会社を救うために存在する会社であるというわけです。


このような状況下において、大事なことは、自らがリーダーシップを持った経営者としての視点で、やりがいや心の充実に重点を置いた働き方をするということです。

そのためには、神様からの使命を受け、神様のための働きをするということです。

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目に見えるお金のために働く生き方から、

目に見えない神様のために働く生き方へ変えること、

それが救われる道です。

仲間意識

サラリーマンをしていると、様々な飲み会の席があります。

異動のときの歓送迎会、年末の忘年会、年明けの新年会と年に複数回はあります。

しかし、コロナ禍において、コロナウィルス感染症対策として3密回避の目的で、ありとあらゆる飲み会が開催されなくなりました。

かつて、私が新卒で会社に入社した頃は、忘年会で新人芸をやったり、幹事を務めた忘年会では、日程調整や店の下見、ビンゴゲームの企画を行いました。

また、それらの行事以外にも、飲みュニケーションと言う謳い文句から、会社から補助が出たり、上司からのお誘いで飲みに行ったりと、飲み会自体が奨励されていました。

しかし、飲み会の席での、上司への在り来りな社交辞令や愛想笑いが、ただただ面倒であり、その場にいること自体が、偽りの自分を作る場でしかありませんでした。

上司は飲んでストレスを解消したとしても、部下はそのような様を装うだけで、むしろストレスは蓄積されていくばかりでした。

しかも、お酒が弱い人だと、悪酔い、二日酔いで、翌日の予定の実行もままならず、キャンセルせざるを得なくなったりと、さらに無駄な時間の浪費を生む要因にもなります。

結局、会社の上流階級のために、下流階級の人達が接待するような飲み会をしたところで、この上なく無駄な時間でしかないわけです。


では、何故、そのような飲み会を、会社は奨励するのでしょうか?

すなわち、仲間意識の刷り込みによる洗脳、です。

会社で働く上での、痛みやストレスを分かち合い共有し、同じ仲間であるから頑張ろうという、意識を刷り込むためです。

それを裏付けるように、転職をしたことで、前の会社で飲みに行ったほぼすべての人達と、それまでの人間関係がぷっつんと切れました。

同じ会社内であるからこその仲間意識であり、会社を辞めてしまえば、仲間ではなく、ちょっと知った知人でしかないということです。

また、このような意識の刷り込みは、以前の報道という記事でも掲載したように、諦めの同調意識を植え付けることが狙いです。

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現に、私はかつての上司との面談のときに、下記のように言われました。

どこの会社へ行っても変わらない、むしろ、他の会社に行くと人間関係も最初からになるから大変、だから辞めないほうがいいと。

それによって、諦めるしかないという意識を植え付けるわけです。

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そのため、多くのサラリーマンが、その仲間意識からくる惰性や、その集団への依存に洗脳され、会社を辞める決断を中々できないというのが、今の実態です。

確かに、仲間意識を持ち、協力することは大事です。

しかし、惰性や依存によって、その会社で働き続けても、成長もなく自分自身を失い、生きている心地もしなくなります。

そうなると、それは、幸せに生きているつもリーマンへの道でしかありません。

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その道は自分自身が救われる道ではありません。


この救いの道に関して、RAPTブログでは、下記のように記事が掲載されております。

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以下、記事のタイトルの抜粋になります。

・罪を悔い改めて心を清めた人は、主のように人類を愛し、彼らを救いたいという熱い思いが燃えたぎるようになる。そして、そのような人こそ聖霊の恵みを爆発的に受けて、大きな救いの働きを成すようになる。

・御言葉を聞いて人生が変わった人は、自分を変える力を持っている人だから、同じように他人を変えることができる。主の救いの歴史は、そのように自分を変えた人を通して成されていく。

・人類の救いのために命がけで生きる者が、完全な救いを受けることができる。

・人類の救いのために熱く祈って実践する人に、主が強力に共にし、恵みと祝福を与え、この地を統治する力と権能を与えてくださる。

-抜粋終わり-

つまり、罪を悔い改めて心を清め、人類の救いのために祈って、聖霊の恵みを爆発的に受けて、救いを受けることができる、ということです。

働く上での惰性や会社への依存から解放されるよう、私もそのように実践していきます。

自由、責任

自由とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていることをいう。哲学用語。自由な行動により生じた結果は本人が引き受けるべきという社会通念があり、自由と責任は併せて語られる事が多い。

ウィキペディアより引用−

サラリーマンをしていると、上司からの強制や拘束、支配され、不自由を強いられることがつきものです。

つい先日も、ある先輩社員が、社長からの指示を受け、社長から言われたのでやらざるを得ない仕事をやるハメになりました。

すなわち、その先輩社員は、社長からの指示を強制的なものと捉え、意識を拘束され、支配されている状況にあるということです。

また、その状況に対し、上司である課長も、社長からの指示であれば仕方がないと、やるならやるでこの点は注意したほうが良いと、他人事のように言っている始末です。

つまり、課長自身も、社長からの指示には従わなければならないが、自分は極力関与したくない、強制・拘束・支配されたくないという心の内が表面化したのだと思います。

私自身も、先日の労働時間の記事でも記載しましたように、在宅勤務という状況でありながらも、拘束されているような意識を持っています。

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つまり、サラリーマンをしている大勢の人々が、歯を食いしばって、他からの強制・拘束・支配がありながらも、自分自身に我慢を強いているわけです。

まさに、逃げ場の無い囚人であり、奴隷でしかありません。

結局、サラリーマンをしている限り、真の自由は訪れないということになります。


では、そのまま人生が終わっても、本当に良いのでしょうか?

現状を維持することで、自分の人生は一体何だったのかと、後になって後悔することはないのでしょうか?

現状から脱却し、人からの強制・拘束・支配される事のない、自由な世界に行きたいと思わないのでしょうか?

確かに、後悔しそうだけれども、生活と家庭があるサラリーマンが仕事を辞めて、自由を手に入れて、その責任を果たして、生きていくことができるのだろうか、と心配になります。

かくいう、私もその一人です。

しかし、その責任は捨てなければなりません。

責任(せきにん、英: responsibility/liability)とは、元々は何かに対して応答すること、応答できる状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたことの原因が行為者にあると考えられる場合に、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。何かが起きた時、それに対して応答、対処する任務や義務の事。

ウィキペディアより引用−

そのように言うと、無責任であるとか、全て自己責任では不安と思う人も大勢いるかと思います。

しかし、人である自分が解決しようとすること、それ自体が不可抗力です。

人では解決策を見つけることはできません。

人ではどうしようもありません。


その点、RAPTブログでは、下記のように解決策を示して下さっています。

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神様に全てを委ねる以外、方法はありません。

神様に全てを委ねるために、その重く感じる責任の他、全てを捨てるしかありません。

それが、唯一の救いの道です。