労働時間
労働時間(ろうどうじかん)とは、使用者または監督者の下で労働に服しなければならない時間のことを指す。労働者が使用者の下で労働に服するにあたり、労働者は使用者の指揮命令下におかれ、その間の時間を労働のために費やすこととなる。つまり、労働者はこの時間において使用者によって拘束され、労働者の行動は大きく制限される。
−ウィキペディアより引用−
この引用文の内容を要約すると、
使用者の管理や指揮によって、労働のために、時間を拘束され、行動を制限される者を労働者、というわけです。
では、この要約文を言い換えてみると、
刑務官の管理や指揮によって、罪の償いのために、時間を拘束され、行動を制限される者を囚人、というわけです。
何ら違和感がありません。
現に、会社に出社していると、労働時間内は、心も身体も囚われているような感覚を持ち、気が休まることがありません。
一方、労働時間を終え、会社から帰社すると、この上なく解放感に満ち溢れています。
これまではそのような時代が、ずっと続いてきました。
ただ、このコロナ禍において、在宅勤務という新しい働き方が導入され、管理や指揮の捉え方にも変化が生じています。
というのも、管理や指揮というものは、お互いが近くにいる環境を前提としています。
しかし、在宅勤務では、各々が自宅で働いている環境にあるため、管理や指揮というものが、そもそも成立しにくい状況にあります。
現に、筆者は在宅勤務となり、出社していたときと比較すると、管理や指揮がされているという感覚を、ほとんど感じていません。
そのため、労働時間内において、解放感を感じることができるようになってきております。
例えば、会議と会議の合間に少し横になったり、周囲の目線を気にすることなく、リフレッシュできております。
ただ、解放感を感じることができるようになった反面、自分の深層心理の中に、未だに時間の拘束と、行動制限の意識が根深く残っているのも感じています。
それを裏付けるように、所定内労働時間である8時半から17時までは、自由に何かをしようしても、その意識に制限がかかり、行動も制限されているような感覚です。
例えば、仕事以外の情報収集をすることにも気が引けたり、外に少し散歩に行く程度でも出歩きにくい心理状態にあります。
深層心理に対する長年の根深い意識付けが、自分の中でも色濃く残っているように思います。
このように、少しずつ変化の兆しが見えてきた中で、上記の労働時間の定義が、ずれ始めていると感じています。
例えば、これまでは通勤という移動時間は、労働時間に含まれておらず、通勤手当により、時間拘束分の手当が支払われておりました。
しかし、午前中に在宅勤務、午後に出社勤務とした場合、午後の通勤時間と労働時間がカブることになります。
つまり、通勤時間の一部が労働時間に含まれることになるわけです。
すなわち、労働時間と労働時間ではない時間との線引が、曖昧になってきている印象を持っています。
そのような今の状況について、RAPTブログの有料記事で興味深いものがありました。
それは、罪の刑期、です。
アダムとエヴァの罪により、人類は6千年間の刑期に入っていたと、
そして、それが2023年に向けて終わると、
しかし、それも一気に終わるわけではなく、徐々に終わりに向けて進んでいくと、
但し、2023年に向けて終わると言っても、必ずしも終わるわけではないと、
その刑期をきちんと終わらせるためには、気を抜くことなく、祈ることが重要であると、
RAPTブログの有料記事では語られています。
囚われの身から自由となり、
人生の幸福を得るために、
きちんと刑期を終わらせること、
そのための祈りが大切です。