娯楽
今回のコロナ禍の巣ごもりにより、ゲームに注目が集まり、ゲームを始めた人も大勢いることだと思います。
ゲームは娯楽の最たるものです。
私もかつて、小学校低学年のとき、任天堂のファミコンにハマっていました。
そのファミコンを誰が買ったのかは記憶にはなく、残っている記憶は苦い記憶しかありません。
ブラウン管テレビの置いてあった姉の部屋に忍び込み、朝6時からファミコンをするということが、日課になっていました。
姉のほうから父親にその話がいったのでしょう、そのファミコンとソフトと私がセットで、家から追い出されました。
どのようにして追い出されたのか、その時の父親の鬼の形相も記憶には残っていません。
記憶に残っているのは、気がつけば雨の降りしきる公園のブランコに座り、ビニール袋に入ったファミコンとソフトを、ただ眺めていたことです。
テレビに繋げなければ、使えもしないファミコンを見ながら、いかに自分が無力であるのかを痛感しました。
そのまま、そこにいても何も前に進まないことを悟り、家にトボトボ歩いて帰りました。
自分史上、最も古く苦いゲームの記憶です。
しかし、このゲームに対する気持ちは中々切り離すことができませんでした。
学校生活においても、友達との話題がゲームであるため、ゲームは欠かせないという意識が働いていました。
そのような意識を持ったまま時が過ぎ、次は、任天堂から、スーパーファミコンが発売されることになりました。
私自身、家を追い出されたことの反省もなく、父親にスーパーファミコンを買いたい旨伝えました。
すると、父親は金庫からおもむろに3万円を取り出し、今月の食費や、それで買ってこいと、まさに鬼の形相で言われました。
そして、逃げるようにおもちゃ屋に向かい、スーパーファミコンを買いに行きましたが、予約している分しか置いていないということで、買うことができませんでした。
ある意味、功を奏したというか、まさに神様の計らいであったように思います。
もし、その時にスーパーファミコンを買っていたら、父親との関係も悪くなり、さらにゲームのドロ沼にハマっていったはずです。
そのときを契機に、私のゲーム熱は冷めていき、ゲームを話題として繋がっていた友達との関わりは少なくなり、公園で遊ぶ友達との輪があっという間に広がっていきました。
また、学校の成績も良くなり、スポーツをする能力も身につき、運動会では大活躍の働きが出来るようになりました。
ゲームを失った分、多くのものを得ることができましたが、これも神様の計らいであったように、今では思います。
しかし、今、自分の子供が、ゲームにハマっている状況を見ると、戸惑いしかありません。
ゲーム機は、懐かしき任天堂のswitch、購入したのは、私の父です。
孫に甘々のおじいちゃんの、私に向けられた鬼の形相は何処へ行ってしまったのか、今となっては謎です。
しかも、ゲームは進化を続け、今はインターネットを通じ、全世界のプレイヤーとゲームをすることができます。
また、手が込んだことに、そのゲームで勝ちやすくするためのアイテムを購入したり、期間限定でしか手に入れられないアイテムがあったりします。
さらに、定期的にイベントというものを開催し、その日その時にゲームに向かわせる動機づけをも行っています。
しかし、私も幼い頃に経験したように、ゲームには一度ハマると抜け出せない中毒性があります。
そして、ひたすら情報を受けてばかりで、思考することができなくなってきます。
そのような誘惑だらけのゲームに子供がハマり、どのようにすれば抜け出せるのか、かつてゲームにハマった自分自身への艱難とも思っています。
乗り越えるべく、下記のように言うようにしています。
・ゲームでは、疲れたりイライラしたりするだけで、何も得ることができない。
・ゲームのアイテムを購入すればするほど、自分の心を売ってしまっている。
・同じ時間を使うのであれば、ゲーム以外で、自分のためになる何かを考えて実行しなさい。
今はまだ試行錯誤の段階ですが、いつか答えがわかるその日に向けて、根気強く続けていくつもりです。
RAPTブログでは、このような娯楽は、サタンが生み出したものであると示されております。
以下の添付は、アニメやゲーム業界に身を置いて仕事をしていた方による証言になります。
悪魔的なアニメもゲームも一時的に人々に刺激や興奮を与えるだけで、決して人を幸せにすることはないということです。
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