RAPTブログの有料記事を見て以降、神様に祈り求めることが日常になってきております。
つい先日も、「より信仰を深めるために、自由な時間を与えて頂けますように」とお祈りをしておりました。
すると、その意に反し、上司から「他チームの残業が多いため、業務の応援をお願いしたい」と打診がありました。
その瞬間は、「あれれ?」となりましたが、蓋を開けてみると、元々私が持っていた面倒な仕事は、他の方に引継ぎすることとなり、他チームから振られてくる業務量はそれほど多くもありませんでした。
結果として、さらに自由な時間が増え、かつ精神的に負担になる面倒な仕事まで減ったのです。
自分の考えでは意に反し、不利益であろうと思っていたことが、結果的に祈りが叶い、益となりました。
まさに、RAPTブログの有料記事の内容を実感でき、さらに信仰が深まることに繋がったように思います。
このように祈りの力を実感する一方で、似た言葉である「拝む」との違いが気になったので、調べてみました。
「拝む」には3つの意味があります。
1つめは、神仏などに、両手をあわせて、頭を下げて、強く願うことです。
2つめは、お目にかかるです。
3つめの意味は、そのことだけを願うことです。
その記事の中で特に気になった点が、3つめの補足として記載のあった「人間が人間に対して行う行為」というところです。
人間が人間に願うというのは、神様を信じるようになった身からしても違和感しかありません。
現に、聖書を読み進めていると、人間が人間の造った偶像を崇拝することに対し、神様がどれほどお怒りになっているのかがわかります。
RAPTブログにおいても、スピリチャル系や神社仏閣参りにおける読者の証言、神社仏閣には悪魔が潜んでいること、偶像崇拝が悪魔崇拝であることを伝えてくださっております。
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馴染みのある神社仏閣の神様と言えば、学問の神様「菅原道真」が有名ですが、元々は生きていた人間であり、そのようにかつて生きていた人間をあたかも神様であるかのように崇め奉っています。
また、会社においても創業者の銅像を建てたりしておりますが、人間が人間を超越した偉人、神様のようであり、あたかも出世することを素晴らしいことであることのように見せかけているようにも思えます。
RAPTブログでは、神様と人間を近づけないようにすることは悪魔の惑わしであり、神様と人間が関係を築くことこそが満たされた人生を歩むために必要なことであると伝えて下さっております。
いずれにせよ、人間の願いを本当に叶えることができるのは神様だけであり、本当の幸せは神様無しには有り得ません。
一人でも多くの方が、神様を信じ、祈り求め、願いを叶えて頂き、真に幸福な人生を歩むことができるよう、切に祈ります。