人生の道標

絶望から希望へ

自由、責任

自由とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていることをいう。哲学用語。自由な行動により生じた結果は本人が引き受けるべきという社会通念があり、自由と責任は併せて語られる事が多い。

ウィキペディアより引用−

サラリーマンをしていると、上司からの強制や拘束、支配され、不自由を強いられることがつきものです。

つい先日も、ある先輩社員が、社長からの指示を受け、社長から言われたのでやらざるを得ない仕事をやるハメになりました。

すなわち、その先輩社員は、社長からの指示を強制的なものと捉え、意識を拘束され、支配されている状況にあるということです。

また、その状況に対し、上司である課長も、社長からの指示であれば仕方がないと、やるならやるでこの点は注意したほうが良いと、他人事のように言っている始末です。

つまり、課長自身も、社長からの指示には従わなければならないが、自分は極力関与したくない、強制・拘束・支配されたくないという心の内が表面化したのだと思います。

私自身も、先日の労働時間の記事でも記載しましたように、在宅勤務という状況でありながらも、拘束されているような意識を持っています。

zer-0-base.hatenablog.com

つまり、サラリーマンをしている大勢の人々が、歯を食いしばって、他からの強制・拘束・支配がありながらも、自分自身に我慢を強いているわけです。

まさに、逃げ場の無い囚人であり、奴隷でしかありません。

結局、サラリーマンをしている限り、真の自由は訪れないということになります。


では、そのまま人生が終わっても、本当に良いのでしょうか?

現状を維持することで、自分の人生は一体何だったのかと、後になって後悔することはないのでしょうか?

現状から脱却し、人からの強制・拘束・支配される事のない、自由な世界に行きたいと思わないのでしょうか?

確かに、後悔しそうだけれども、生活と家庭があるサラリーマンが仕事を辞めて、自由を手に入れて、その責任を果たして、生きていくことができるのだろうか、と心配になります。

かくいう、私もその一人です。

しかし、その責任は捨てなければなりません。

責任(せきにん、英: responsibility/liability)とは、元々は何かに対して応答すること、応答できる状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたことの原因が行為者にあると考えられる場合に、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。何かが起きた時、それに対して応答、対処する任務や義務の事。

ウィキペディアより引用−

そのように言うと、無責任であるとか、全て自己責任では不安と思う人も大勢いるかと思います。

しかし、人である自分が解決しようとすること、それ自体が不可抗力です。

人では解決策を見つけることはできません。

人ではどうしようもありません。


その点、RAPTブログでは、下記のように解決策を示して下さっています。

rapt-neo.com

神様に全てを委ねる以外、方法はありません。

神様に全てを委ねるために、その重く感じる責任の他、全てを捨てるしかありません。

それが、唯一の救いの道です。