会議

会議(かいぎ)は、関係者が集まり、特定の目的(議題)に関して意見交換・審議し、合意・施策などの意思決定をすること、およびその物理的構成員の集まりを意味する。また、「会議」には、それらの集まりを計画・管理・運営する組織(合議体)の意味もある[1]。 英語のmeeting(ミーティング)は集まり・協議を意味し[2]、conference(カンファレンス)は協議および協議体を意味する[3]。

ウィキペディアより引用−


サラリーマンをしていると、当たり前のように会議があります。

昨日、無駄な調整業務に関する記事を掲載しました。

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その調整業務と同様、会議についても、非常に無駄な会議が多くあります。


例えば、報告だけの会議は無駄です。

今週はこれこれをしていました。来週はあれそれをしますという、ただの報告会議です。

報告だけであるなら、わざわざ同じ時間に同じ場所で集まる必要はありません。

メールで関係者に報告内容を連絡するだけで十分です。


また、ある課題解決という目的に対して、人は集まるものの、何も決まらない会議も無駄です。

課題解決のために、人を集めようと、会議設定はしたものの、課題に対する解決案を、誰も持っておらず、何も決まらない会議です。

(かつて、私はそのような会議に参加し、先輩社員が司会を務める会議で、5分近く誰も話さない会議を経験したことがあります、自分史上、最悪の沈黙会議でした。)

その課題に対する解決案を持っておらず、会議の参加招集が来たならば、本来、断らなければなりません。

参加することに意義があると、言わんばかりの会議は、この上なく無駄です。


さらに、そのような会議で、議事録を作成することも無駄です。

そもそも、その会議自体が無駄であるため、その会議の内容を記録する議事録が、無駄でないわけがありません。

議事録を書いて、関係者に連絡した後で、その内容に異議ありと言わんばかりに、指摘すること自体も無駄です。

そして、その内容が実は正しかった場合、その指摘自体がなお無駄ですし、その内容が間違っていたとしても、元々無駄な会議なわけですから、いずれにせよ、無駄です。

結局、無駄な会議は、無駄が無駄を生む、無駄のスパイラルに陥るしかありません。


では、この無駄な会議、何故、無くならないのでしょうか?

上述したように、参加することに意義があると思っている人が大勢いるからです。

そのような人達の大半は、実際、何の仕事も持っていません。

何の仕事も持っていないことを悟られない意義のために、パフォーマンスとして、あたかも会議で忙しいように装っているに過ぎないのです。


記憶に新しいところでは、英グラスゴーにて、COP26なる会議が開催されました。

COP26とは、国連気候変動枠組条約第26回締約国会議と言い、約120カ国の首脳が参集した国際会議です。

この会議もありもしない気候変動問題で、庶民を煽り、お金を巻き上げる口実を作るための、無駄なビジネス会議に他なりません。

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現に、英グラスゴーで会議が開催されている外で、環境活動家という名で、気候変動問題の宣伝スポークスマンのグレタ・トゥーンベリさんが、各国首脳を批判していました。


結局、国際的にも、会議は無駄で、その周りの活動もすべて無駄です。


私は在宅勤務となり、今はすべての会議がウェブ会議となりました。

参加招集された会議で、参加任意のものは100%不参加にしています。

また、参加必須であっても、自分が参加しても意味のないような会議には参加しないようにしています。

さらに、参加必須で断りにくいような会議でも、電波不通を理由に稀に参加しないこともあります。


そのように、無駄な時間は根こそぎ削ぎ落とし、真に価値ある時間に費やすよう、努めています。

人生の時間は有限です。

是非、価値あることに時間投資を。

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