評価
サラリーマンをしていると、年に2回ほど、上司との面談の機会が設けられています。
その場では、上司から会社目標、部門目標の提示がなされ、個人目標へ落とし込み、個人の考えとのすり合わせが行われます。
また、それまでの個人の成果を確認し、評価を行い、報酬への反映についても、すり合わせを行います。
あくまで、会社側から従業員に対し物申す場であり、従業員から会社側に何かを物申す場ではありません。
結局は、会社の意向を伝え、その意向に沿った行動を取るよう促すことと、他者である会社が従業員をどのように評価しているのかを伝える場でしかありません。
私も、社会人になりたての頃は、他者から良いように見られたいと、仕事で成果を出すことに必死になっていました。
それが報酬に反映されずとも、他者から評価されることが、自分の満足に繋がっていました。
しかし、結婚をし、家族を持つようになると、他者からの正当な評価を求め、自分の成果をいかに、報酬に反映させるかのほうに重点が置かれていくようになりました。
但し、そこで、上司との認識のズレが起きてくるようになります。
その認識のズレが起きてくる原因は、上司が常に自分を見ているわけではないということです。
上司は上司から受ける仕事もあり、また、複数の部下を持っていると、人一人をまともに見ることができません。
そのため、自分がいかに、仕事で成果を出していたとしても、上司が見ている前で、出した成果で無ければ、何もしていないことと同義であるわけです。
イヤらしい話、成果を出していなかったとしても、上司が見ている前でだけ、成果を出したかのように振る舞うことで、評価がされるのが実態です。
そのため、真面目に仕事をすることがバカバカしく思えてきてしまいます。
私もかつてそのような経験をしたが故に、転職という道を選択することになりました。
一度、自分の状況を見つめ直すという意味でも、その時の判断は正しかったと思っています。
何故なら、面談や評価というのは、上司から部下へのパフォーマンスでしかないことに気付くことができたからです。
部下を馬車馬のように使うための、会社の手駒となって働くよう洗脳するための、お金という名の人参をぶら下げる場です。
他者の評価に振り回され、その時々で人参のサイズに振り回され、ひいては、自分自身を見失うリスクのある場です。
私がこれまで関わってきた上司というものは、自分で考える力が無くなり、部下に意見を求め、また求めるにあたり、将来あるかないかもわからない出世という餌をぶら下げて歩み寄ってくる人が大半でした。
自分自身がそのようにぶら下げられた餌に、ぶら下がって出世してきたからこそ、そのような手を使うのだと思います。
そのような経験を経たことで、私は、あくまで自己評価の中で、仕事をすることに軸足を移し、自分自身がどうであるかを重要視するようになりました。
その中では、他者評価として、他人からどう思われようとも関係ありませんし、他者がどのように仕事しているのかも関係ありません。
そこにあるのは、何をするのも自分次第、ということだけです。
しかし、自分次第ではありながらも、今の世の中、自分一人でどうこうできる世の中ではありません。
結局、他者との関わりの中で、成立しているのが、今のこの世の中であるからです。
そのような世の中であるが故に、自己評価も高めにくい状況にあります。
では、他者からの評価も、自分の評価も気にすることのないようにするには、どうすれば良いのでしょうか?
他者と自分の評価なく、この世の中で生きていくには、どのように考えれば良いのでしょうか?
その悩みに対する、答えを示されているのが、RAPTブログです。
RAPTブログでは、
自分の評価や他人の評価では、自分の運命は何も変わらない、
自分の運命が良くなるのも悪くなるのも、全ては神様がその人のことをどう評価するかにかかっている、
常に神様から高く評価されるために努力する者となること、
それが大事なことであると記事が掲載されています。
他者や自分に依存することなく、
常に神様を意識し、神様から評価されるよう、
たゆまぬ努力を続けていくこと、
それが大切なことです。